不登校からの20年後
高校を辞めた時点で、人生は思っていたほど決まっていませんでした。そして、早稲田に入った時点でも、決まっていませんでした。不登校から20年以上が経った今、私がどこにいて、どう思っているかを書きます。
本記事は筆者の体験と見解です。進路の判断は、本人の状態や学校・支援機関の最新情報と合わせてご検討ください。
このページの要点
- 早稲田に入れば勝ち組だと思っていたが、間違いだった。就活は受験を超える全能力の競争で、備えられていなかった
- 小さなITベンチャーに拾われ、休日も機材を買って勉強し、資格を取り、SESが嫌になって事業会社へ。そこからCore30、さらに転職を重ねて外資へ
- 今は完全リモートで、平均年収の数倍の収入。これが正解かはまだ分からない。それでも、一度レールから外れた人間が人並みの生活を送れていることに感謝している
ここまでの話
学校に行けなくなり、高校を辞め、高認を取り、模試で偏差値29を取り、反復と暗記に光明を見出して早稲田に入った。ここまでは、別の記事に書きました(『高認と大学受験はまったく別物だった』『高認から早稲田大学へ進学するまで』)。この記事は、その続きです。大学に入ってから、今に至るまでの20年です。
早稲田に入れば、勝ち組だと思っていた
合格通知を受け取ったとき、私は本気で、勝ち組の人生が約束されたと思っていました。不登校で、中退で、偏差値29だった人間が、早稲田に入った。ここから先は、レールに乗ったのだと。
間違っていました。大学に入ることと、その先で生きていけることは、別の話でした。大学の4年間は、確かに自由で、居心地がよかった(『大学入学後に困ること』)。でも、その自由の中で、私は次の競争に備えることを、ほとんどしていませんでした。
就活という、受験を超える競争
就職活動は、受験を超える競争でした。受験は学力だけの勝負です。就活は、学力に加えて、会話の力、容姿、印象、情報収集、人脈、タイミング、そして運。人間の全能力を使う総力戦で、私はそれにうまく備えられていませんでした。
受験は、暗記と反復で乗り切れました。就活は、そうはいきませんでした。高校の3年間、集団の中で身につけるはずだった力を、私は持っていなかった。100社以上受けて、ほとんどすべて落ちました(『不登校から一流企業に入るには』)。「早稲田なのに」と、何度も思いました。
小さなITベンチャーに、拾ってもらった
結局、私を拾ってくれたのは、小さなITベンチャーでした。名前を聞いても誰も知らない会社です。就活の勝ち組の道からは、完全に外れていました。
ただ、そこで私は、初めて自分に合うものを見つけました。技術です。会話や印象ではなく、できるかできないかで評価される世界。私は、休日も家でも、ずっとITのことを考えていました。ヤフオクで業務用のIT機材を買って、家で組んで、壊して、また組んで勉強していました。楽しかった、というのが正直なところです。
その結果、入社1年目のゴールデンウィーク前に、当時目標にしていた資格のさらに上位資格まで取得しました。受験のときに身につけた「覚えるべきものを、忘れる前にもう一度触れる」が、そのまま使えました。小さなベンチャーで、資格だけが先に走っている状態でした。
SESが嫌になり、事業会社へ
その会社の仕事は、SESと呼ばれる形態でした。顧客先に常駐して、そこのシステムを支援する。技術は身につきますが、自分が何を作っているのかが見えない。顧客の都合で現場が変わり、身につけたものが次に活かせるとは限らない。
私は、それが嫌になりました。自分の会社のシステムを、自分で面倒を見たい。事業会社の情報システム担当になりたくて、中小の事業会社に転職しました。顧客先でシステムを支援する側から、自社でシステムを持つ側へ。ここで初めて、自分の判断で技術を選び、運用し、責任を持つ経験をしました。
Core30の会社から、声がかかった
あるとき、売上が兆を超える、Core30に名前が挙がるような会社から声がかかりました。中小の事業会社で情報システムをやっていた人間に、です。私は奇跡だと思いました。そして、奇跡的に内定をもらいました。
新卒でほぼ全滅した人間が、中途で、日本を代表する会社に入った。この経緯は、私が「中途採用は穴場だ」と書く根拠になっています。見られたのは、学歴でも経歴のきれいさでもなく、それまでに積んだ具体的な経験でした。
数年勤めました。そこで得たものも大きかったのですが、人間関係と会話の力で消耗したことは、別の記事に書いたとおりです(『良い大学を選ばなくてもいい?』)。
さらに転職し、そして外資へ
その後、より給与水準が高く専門を活かせる会社からスカウトされました。特殊なモノを扱う日本有数の会社だったので、すぐに転職しました。当時30歳成り立てでしたが、年収は1000万を優に超えていました。
しかし結局、日本企業のやり方に嫌気がさして、S&P500に名前のある外資系企業に転職しました。今はそこで、エンジニアとして働いています。
働き方は完全リモートワークです。収入は、日本の平均年収の数倍になりました。学校に行けなかった15歳の頃の自分に、この状態を説明しても、信じないと思います。
これが正解かは、まだ分からない
ここまで書くと、成功の話に見えるかもしれません。でも、私はこれが正解だったとは、まだ思えていません。大企業で消耗した。転職を重ねた。日本企業に居場所を作れなかった。今の会社も、いつまで続くかは分かりません。勝ち組だと思っていた早稲田の合格は、勝ち組ではなかった。何かに入った時点で決まるものは、結局、何もありませんでした。
それでも、一つだけ確かなことがあります。一度レールから外れた人間が、今、まともに人がましい生活を送れている。働いて、食べて、家族がいて、明日のことを考えられる。学校に行けなくなった日、高校を辞めた日、100社に落ちた日、そのどの日にも想像できなかった状態です。
そのことに、私は感謝しています。誰にというより、ここまで続いてきたことそのものに。
あのときの自分に言えること
学校に行けなくなった日の自分に、何か言えるとしたら、たぶんこうです。
まだ人生は決まっていない。高校を辞めても、早稲田に入っても、大企業に入っても、何も決まらなかった。決まらなかったということは、いつでも変えられるということ。そして、レールから外れた人間は、レールの上を歩く方法ではなく、外を歩く方法を覚えていかなければならない。その方法は、あとで何度も役に立つ。
不登校は、私の人生に大きな痕を残しました。けれど、こうして書けば、誰かのための跡になります。そして、私が残した跡を辿って、また若い人がその後に続いてくれるでしょう。それが、このサイトの名前の意味です(『このサイトについて』)。